未定

頭弱い女子高生が必死に綴る日記やら意見やらであります。嵐、デパコスが好きな音楽進学生。

メンヘラにとって Twitterは救いだったのか についての意見文。

高校3年生です!全盛期にアメブロしてたぐらいでブログに関しては全くの初心者ですがよろしくおねがいします。 本当に自分の日記のような感じなので滅茶苦茶だったらすみません(^_^;)

 

今日は、一切のSNSを自粛してみて感じたことを。本当に頭が弱いのですが、最近は専らこのテーマを書きたかったのです。不快にさせたらすみません。そして一貫性もなければ支離滅裂でオチもない文章でごめんなさい。言わんとしてることが少しでも伝われば嬉しいです。

 

 

 

「メンヘラ」

この単語自体が一般的に通じるようになったのは、いつ頃からだろう。

私がそれを知ったのは、2013年頃であったかと思う。その頃はまだ10代の中では完全に定着している言葉ではなく、会話にこの単語を出しても全くもって意味が通じないこともあったであろう。(まあ、実際に自分から会話に出すことなどなかったが。)

 

しかし今では、インターネッツでその単語自体を目にすることは決して少なくはない。個人的にはTwitterでよく見かけるので基本的にはそれを基準に話させてもらう。しかも10代でそれをしたことのない人間の方がきっと少ない。つまり「メンヘラ」という単語自体が、若者の間に普及しているであろう。

現に私自身、少しでもネガティブな発言をするだけで「メンヘラだろ」という言葉を浴びせられることも多々ある。

 

そして、「言葉が普及した」ということは、2つのことを意味すると考えた。まずは「そういう人種が、一般的に認識される程度の居場所を作り上げてきた」ということ。

貴重な中高生時代を南条あやの本を読みふけって、ひとりオーバードーズに精を出した人間である世間的にメンヘラだと捉えられる私自身、ここ数年その素性を晒け出せる居場所が増えてきたと感じる。前述のとおり、特にTwitterでそれを感じる機会が多い。特に「病み垢」などで検索をかけたらそれは一目瞭然である。(徐々に、病み垢という名目ではないがそのような人が集まる、というジャンルも増えてきているように感じるが…。)

普段は誰にも相手にされない寂しさ抱えたジブン、あるいは明るく振る舞うがどこか虚無感が拭いきれないジブン、そんなジブンを誰も否定しないどころか共感してくれる、慰めてくれる。ここではどんなジブンを発信しても誰かきっとが認めてくれる、奇異な自分にも価値がある、なんてことを感じさせてしまう。そんな場所が昔より増えたのは紛れも無い事実であろう。

 

しかし、「言葉が普及した」ことは、メンヘラたちにとってそう甘くはなかった。居場所ができると同時に、「元来の意味だけでなく色々な負のイメージがメンヘラという言葉片付けられる」ようになってしまったのである。これを押し進めたのも、恐らくTwitterをはじめとするSNSであろう、と私は推測する。

前述のとおり、ネガティブな発言をするだけでメンヘラ、もっと甚だしいものになると、黒髪ぱっつんはメンヘラ、などの何の根拠もない意味までついてきてしまった。まあ、一つの新しい流行語のようなものなので当然である。しかし、そのような世間の目は確実にメンヘラを追い込んだかと思う。ある時は、自分はどうしてこう迷惑ばかりかけるのか、どうしてこうなってしまったのか、世間の目を痛烈に感じた私はそんなことを何度も頭で反復させた。居場所を広げようとしすぎた結果、完全に世間とは隔絶されたものになってしまったかのような感じを覚えた。

 

さて、ここまで支離滅裂な文章を垂れ流しにしてきたが、何が言いたかったのか。

メンヘラの居場所を作るとともに、メンヘラの印象を悪くし世間の風当たりを強くさせたTwitterは、果たして救いだったのか否か。(ここからもっと酷い文章になります。はっきり言って暴論です。)

 

まず私の意見はこう。口に出せない「辛い」「悲しい」を表出できた。いつも誰かがそこにいて、誰かが醜い自分までも肯定してくれているような気分になれた。オーバードーズ自傷行為も辞めよう、と思えた。つまり、救われているようなそんな感覚だったのだ。しかし受験が迫り、いざその場所から立ち去ってみると、確かに初めは吐き出せる場所もなく息苦しい気がした。でもふと、以前と辛さはそこまで変わらないことに気づいた。「救われたような気がした」だけであって救われてはなかったのだ。理由はわからない。しかし「本当の意味で救われてなかった」ことだけは言える。そしてもう一つ気づいたこと。予想以上に世間の風当たりは強くなっていた。私が自傷行為を始めたころは、ここまではなかったはず、だった。

何が言いたいのか、「本当の意味では救われていないのに、世間の風当たりだけは確実に強くなっていた」ということである。これは、あくまで私だけの意見。Twitterは救いである!そう思っている方も恐らくたくさんいる。しかしそういう方々は、Twitterをしている間は確かに救われてるかもしれないが、本当の意味で「救済」されているか。おそらく殆どがNOであると思う。私は、「〜に救われる」とは、その先あっての言葉である。しかし大抵の人は一時しのぎ以外の何物でもないのではないだろうか。Twitterを利用している間、安堵感を感じる人ほど、現実を見ると、余計辛くなっているのではないか?

 

これはTwitterをしていた人の偏った意見である。それに、このことについての万人が納得するような結論なんて多分出ない。しかしTwitterに救いを求め、そこを離れたからこそ絶対に言えることがある。今、そこだけが救いだと思ってる同世代の人に言いたい。

 

Twitterが私たちの全てを救ってくれることは、ない。